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6月9日 天気:曇り
 浜辺で保護した少女がやっと目を覚ましてくれた。安心はしたのもつかの間、すぐひとつ問題ができてしまう。彼女は森で誰かから追われている内に、足を踏み外し海に落ちてしまったことしか覚えていなかった。つまりは、記憶喪失者だったのだ。まさかの事態に驚いてしまった。
大変だったのはここからだった。過去の記憶がない事に気付いた彼女は、パニックを起こしそのまま泣き出してしまったのだ。僕なりにあらゆる手を尽くしたつもりだったが、彼女はなかなか泣き止んでくれない。更に悪いことに、彼女の泣き声を聞きつけて来た女性陣からあらぬ誤解をされてしまい、余計にややこしい事になってしまった。結局、場を何とか治めるのに小一時間もかかってしまった。
しばらくして、落ち着きを取り戻した彼女だったが、それでもまだ自分が何者か分からずに戸惑っていた。僕たちもそんな彼女に対して困ってしまった。彼女の怪我が治る頃には彼女を故郷まで送ってあげようと話していたから。自分のことが分からなければ故郷を探すことはできない。世界には数百の町村や集落が点在しているのだから。
僕と助手たち全員で話し合った結果、彼女の記憶が戻るまでの間、彼女には僕の助手のひとりとして働いてもらうことになった。最初は不安がっていたが、家事のお手伝いでいいからと言うと彼女は素直にコクンと頷いてくれた。
それと、彼女には仮の名として『イオ』と名付けた。由来は右の上腕部分に刻まれた文字から。傷だらけだったのでほとんど読めなかったが、辛うじて読めたのが『イオ』だったのだ。彼女はその名前をすぐに気に入ってくれた。女性助手たちからは「女の子っぽくない」「あまり可愛くない」とかなり不評だったが。
こうして僕のもとにイオという新しい助手がやって来た。しばらくの間はアーリーが指導役になってくれるので、イオも不安なく働けるだろう。少しでも早くここに慣れて欲しいところだ。





ハルト先生の助手になってから数日経つ。わたし、イオは、先輩のアーリーさんから仕事を教わりながらここでの生活を送っていた。覚えなきゃいけないことはいっぱいあって大変だけど、「少しずつやってくれればいいから」とみんな優しくしてくれた。だから辛いとは思わなかった。むしろ、ありがとうって言ってばかりだ。
 ハルト先の実家は街一番の敷地の広さを誇るお屋敷で、ハルト先生や助手のほとんどは住み込みをしながら研究活動をしている。そんなこともあって、街の人からはここにいる研究者さんたちのことを「モニカ研究者」と読んでいるそうだ。もちろんわたしも例外なく、アーリーさんと同じ部屋に住みながら「モニカ研究者」のひとりとして働くことになった。
仕事を教えてくれるアーリーさんの家名はベアンというらしい。ベアルト族ではよくある名字なのよ。自己紹介のとき、アーリーさんがそっと教えてくれた。
今日は、みんなの服を洗濯する仕事だ。民族学者たちはあちこち動いているから、自然と汚れちゃうんだって。
「アーリーさん。仕事、終わりました」
 洗い終わったばかりの洗濯物たちが入った籠をアーリーさんの所に持ってきた。小さな耳がぴょこと動いてからアーリーさんは振り返る。
「ありがとう、イオちゃん。じゃあ次はそれを脱水機にかけてくれる?」
「…脱水機?」
「あ、しまった…こめんなさい。まだ場所を教えてなかったわね。こっちよー」
てちてちと歩いていくアーリーさんのあとをついていく。ベアルト族はクマ系亜人の中で最も平均身長が低いって、アーリーさんから教えられた。大人になってもあまり背は高くはないらしく、アーリーさんは140cmしかない。わたしより25cmも低いのだ。そのせいなのか、歩幅はかなり狭いし…

 …あと…

 べしぃ。

「…あ」
 そのせいなのかどうかはよく分からないけど、アーリーさんはよく何もない所で転んじゃうし。
「あぅ…」
「…大丈夫、ですか?」
「だ、大丈夫よー…」
ここに来てからアーリーさん何回転んだんだろう。見る限り5回以上は転んでるような気がする。手を差し出すと彼女は苦笑いを浮かべながら私の手を握り、立ち上がった。
「ありがとう、イオちゃん。もしも私が運んでいたら、洗濯物が汚れちゃうところだったわね」
「あ…いえ…」
「さぁ、脱水機はこの先よ、おいでー」
白衣を砂埃にまみれてしまっても、アーリーさんはいつものように柔らかい笑みを浮かべて再び歩き始める。わたしもまた歩き出した。今度はできるだけ彼女のすぐ後ろを歩く。アーリーさんがまた転んでしまわないように。また転んでもすぐに手を差し伸ばせるように。


『おっせーぞ!――!早く来ないと、俺が先に食べちゃうからな!』

…?

『ははっ!相変わらずお前はおっそいな!もっと早く走れるようになんなきゃ、一人前になれねーぞ?』

まただ。
 また、頭の中で声が響いた。
でもこの前の優しい声とは違う。今度のは明るくて勇ましい、若い男の人の声。
……やっぱり、思い出せない。あの時といい、今日といい、わたしを呼びかける声の正体が何もわからない。
記憶を失っているせい?もしかしたらわたしをよく知っている人かもしれない。失った記憶を取り戻せたら、分かるのだろうか?

「…イオちゃん?」
ハッと我に帰ったとき、目の前でアーリーさんがわたしのことを見上げていた。
「どうしたの?何か思い出した?」
見上げるアーリーさんはとても心配そうに尋ねた。そこでようやく、わたしは二、三歩分しか足を出していないことに気づいた。
「あ…すみません。ちょっと…」
「ちょっと?」
「……」
「…?」
言葉に詰まってしまった。どうしよう。今起こったことを伝えるべきだろうけど、確証を得たわけじゃないからなぁ…
「…あ…えと、その…」
「なあに?」
「…らが」
「えっ?」
「…空が、綺麗だなぁって…」
とりあえず、アーリーさんには申し訳ないくど、誤魔化すことにした。でもそれにしたって、酷い誤魔化しかただったと思う。
アーリーさんは最初ポカンとしていたけど、やがてふっと笑った。
「そうね。今日は洗濯物を乾かすには十分すぎるくらい晴れてるから、きっと早く乾かせるわね」
…あれ?もしかして…バレて、ない?
「でも、脱水機で余計な水分を飛ばせばもっと早く乾くと思うわ。早くいきましょ?」
「は…はい」
そうだ。わたしは今ハルト先生の助手としてここにいるんだ。仕事を途中で止めていたら、ハルト先生やアーリーさんだけではなく、他の人たちにも迷惑をかけてしまう。
洗濯籠を持ち直してから、もう一度歩き出す。これ以上アーリーさんに心配や迷惑をかけないためにも。






 xxxx.06.14 weather:快晴!
 先輩のお仕事を始めて早数日っ
 今まで私が最年少だったから、先輩っていう言葉がなんだかくすぐったい気がする。
 でも先生から直々にご指名をもらったんだから頑張らないとねっ
 新しい後輩の名前はイオちゃんといって、どうやら記憶喪失者みたい。まさか記憶喪失の女の子とお仕事をするなんて思わなかったから、かなりびっくり。
 どうなるかなって最初は不安だったけど、どうやら大丈夫みたい。イオちゃんはちょっと不器用だけど、素直で優しい子だった。最初は慣れない仕事に戸惑っていたけど、やり方を教えたらすぐにこなせるようになっていた。頼りになる後輩になるな、絶対に!
 これからもイオちゃんの先輩としてお仕事をするわけだし、私もしっかりしないとね!

 でも、今日のイオちゃんちょっと暗かったなぁ。どうしたのかなと聞いてみたけど、誤魔化されちゃった。きっと何かあったんだろうなぁ…でもとても聞ける雰囲気じゃなかったからそのままにしちゃった。
 うーん…これは先輩の行動としてはどうなのかな?でもお仕事を始めてからまだ少ししか経っていないのにいきなり、聞くのもあれだし…とりあえず今は聞くのはやめておくことにしよう。ここの雰囲気に慣れて、仕事がある程度できるようになってから聞くのでも、遅くはないと思うけど。
 その前に、イオちゃんが無事に自分の記憶を取り戻すほうが早いといいな。大切な記憶を失ったまま生活するのって、きっと辛くて寂しいことだと思うから。





「…よしっ!日記おーわり!」

何を書いているんだろう、気になって聞こうとしたら、アーリーさんが突然立ち上がった。
「あの、何を書いているんですか?」
「んー?これよー」
ちょっとだけびっくりしたけど聞いてみると、アーリーさんは楽しそうな表情で一冊の本を持ってきてくれた。可愛らしいパステルピンクの表紙が目に入る。
「…何ですか?」
「日記よ。1日の終わりにその日にあったことを書くの。イオちゃんは書いたことはないの?」
にっき?初めて聞いた言葉にわたしはそのまま首を横に振った。もちろん、書いた経験なんてない。
「あら、もったいないわよー。ちょっと時間を使うけど、その日の出来事のなかで覚えていたいことや思い出したいことがいっぱい書けるわよ」
「覚えたい…思い出したい…」
今のわたしがちゃんと覚えていることは、誰かに追われながら海に落ちたあの時だけだ。それ以外で覚えていることは、ここでの生活とここで払いている人たちのことと…あとは何とか覚えられた仕事くらいだ。
 覚えていることも、思いだしたいことも、多いとは言えない。
「…ねぇ、イオちゃん?」
突然呼ばれてそのまま顔をあげたとき、目の前にいたアーリーさんはにっこりと笑みを浮かべていた。


「イオちゃんも、日記書いてみない?」




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